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世界初のプログラマー・エイダ・ラブレスの生涯に、飛躍的創造の鍵を探る

「人々の生活を大きく変えるようなイノベーションはどのようにして生まれるのだろう」

1997年、クレイトン・クリステンセンは「イノベーションのジレンマ」にて、破壊的イノベーションが生まれる背景や因果関係に関する一連のモデルを提唱した。

クリステンセンの体系的なレビューは世界的な注目を集め、その後、地政学的な見地や余剰生産物との関係から一定の法則を導こうとする試みや発明家の内面に着目した類推など、イノベーションの鍵を探るための様々なアプローチが生まれるようになった。

イノベーションが生まれた背景に目を向けると、確かに説明可能でそれらしい要因があることが多く、そこには一定の因果関係や法則があるようにも思える。

余剰生産物とイノベーションの関係を考える時、メディチ家の財力がルネサンスに果たした役割を連想するのは自然なことだし、深圳やシリコンバレーの地政学に関して、それなりの見識を持つ人は多いだろう。

しかし、私たちは時折、まるで説明のつかない、100年先を見透かしたかのような創造的飛躍を目撃することがある。

その背景や因果の手がかりすら知れないような創造的飛躍に出くわした時、私たちはそれをどのよう考えるべきなのだろう。

 

エイダ・ラブレスの物語

 

イノベーションやコンピュータの歴史において、世界初のプログラマー・エイダ・ラブレスの生涯は、人々の好奇心と恭敬を惹起する不思議な魔力を持っている。

1815年、エイダは、抒情的な表現と創作でヨーロッパ中に強い影響力を持ちながら、醜聞の絶えないロマン派の詩人・オーガスタ・バイロン卿のひとり娘として生まれた。

エイダが10歳になる頃にバイロン卿が他界すると、母親のアナベラは、エイダに何人もの家庭教師をつけ厳格な数学教育を施すようになる。

女性が科学的な職業に就くなど到底考えられないとされていた19世紀のヴィクトリア朝において、アナベラがそこまで熱心に娘に数学の能力を授けようとしたのは、家庭を顧みることなく、無秩序かつ淫蕩な生活を送っていた亡き夫の幻影を断つため手段を、厳格な数学の世界に求めていたからだったとも言われている。

いずれにせよ、エイダは数学の才覚を発揮し、この時の体験が彼女の後の人生において大きな影響を与えることとなる。

エイダは19歳になると、ウィリアム・キングという名の男爵と結婚し、後に3人の子供を授かった。彼女は、ヴィクトリア朝の典型的な上流階級の生活を甘受して、父親のような無秩序な生活とは無縁な「模範的」な人生を歩むかのように思われた。

しかし、夫が伯爵の地位を得て、3人の子供が大きくなる頃になると、エイダは当時のヴィクトリア朝の理想的な生活では物足りなさを感じるようになる。

当時の彼女の手記からは、一見、華やかでありながら平凡な日常に閉じ込められていることに対する閉塞感と、幼少期に手ほどきを受けた数学に対する情熱との間で葛藤していたことが見て取れる。

ヴィクトリア朝の上流階級の華やかな生活も、愛情深く高品な夫も、彼女の数学への情熱と未知への探求心を満たすことはなかった。

エイダ・ラブレス 出典:Science Museum Group

19世紀のコンピュータ

 

幸運にも彼女は、その後の人生を大きく転換させる人物と出会うことになる。エイダが25歳になり、従来の社会規範の枠組みの中で生きることが、ついに限界に達する頃、チャールズ・バベッジは、後に世界初のコンピュータとして再評価される「解析機関」の研究開発に没頭していた。

後に「バベッジの階差機関」と呼ばれることとなる、複雑な計算を実行できるコンピュータの設計だ。

1820年代にありながら、バベッジの設計には現代のコンピュータの構成要素、例えば、CPU、ランダム・アクセス・メモリーと言った概念も内包されており、彼が如何に先進的だったかが伺える。

バベッジの階差機関 出典:SCIENCE MUSEUM GROUP

エイダは、ロンドンの社交サロンで出会ったバベッジとの手紙のやりとりの中で、バベッジの助手となることを強く申し出た。バベッジは彼女の才能と熱意を受け入れた。

女性が王立科学協会といったアカデミアから排除されていた時代において、エイダは、学問の探求に没頭できる、またとないチャンスを手にすることとなった。

「どうしてもあなたとお話がしたいです。何についてなのか、ヒントを差し上げましょう。あなたなら将来いつか、私の頭脳をご自分の目的と計画の道具にするかもしれないと思うのです。もしそうなら、私の頭脳はあなたのものです。」

以後、二人は師弟のような関係となり、二人三脚で「解析機関」の研究に邁進する。エイダは、バベッドの書いた基本命令セットに膨大な量の注釈を書き加えていった他、ベルヌーイ数の数列を計算するプログラムなども記述している。

エイダが命令セットをどこまで自身で書いたのか、どれほど改良に貢献したのかについては未だに論争に決着はついていないが、エイダの注釈には、後にコンピュータの歴史に刻まれることとなる革新性があった。

エイダが”note G”に記したダイアグラム  出典:Wikipedia

「この機関の仕事が計算結果を数字表記で出すことなので、本質は代数や分析だと思っている人が多いが、それは間違っている。この機関は数字で表された量を、まるで文字などの一般的な符号であるかのように、配列して組み合わせることができる」

エイダは、バベッジの解析機関が単なる計算機ではないことを見抜いていた。その潜在的用途は、単なる演算処理の範疇をはるかに超えたものであり、高度な芸術も表現できる可能性を秘めていると。続けて、まるでタイムトラベラーであるかのような考察を展開する。

「例えば、和声学や楽曲における音の高低の基本的関係が、そのような表現や調整の影響を受けているとすれば、この解析機関は精巧に、そして科学的に、複雑さや広がりを持った音楽を奏でるかもしれない。」

19世紀半ば、プログラム可能なコンピュータという概念すらほとんどの人が理解出来なかった時代において、何故、彼女がこのような飛躍的発想が出来たのかは、ほとんど意味が分からない。エイダは、どういうわけか100年以上も時代を先取りして、このマシンが言語や芸術をも表現できるというビジョンを見据えていたのだ。

スキャンダルに絶えず、家庭を捨てた父親の抒情的な創造性は、確かにエイダに受け継がれ、鋭敏な感性として昇華されていた。エイダが付け加えた注釈に、性急さの兆候、あるいは不注意による瑕を認めたとしても、それがバベッジの記した原文をはるかに歴史的価値のあるものしたことは間違いない。

しかし、あまりにも時代を先取りし過ぎた二人の才覚に当時の社会はついていけず、結局、バベッジとエイダは階差機関を完成させることなく没した。その後、バベッジの「解析機関」とエイダの見た情景は、長い間歴史の中に埋もれることとなる。

バベッジの「解析機関」が人々の再評価を得るのには、1940年代の電子式計算機が出現まで待つ必要がある。芸術を表現する手段としてのコンピュータという概念が語られるようになるのは、エイダの死後、100年以上経った1970年代になってからのことだ。

飛躍的創造性は、どのようにして生まれるのか

 

エイダのように、歴史的文脈から逸脱した飛躍的発想を持つ人物を大雑把に「天才」の一言で片づけるのは簡単だが、数学とロマン派の詩歌が交差するエイダ・ラブレスの数奇な生涯には、それ以上の示唆がある。

「Where Good Ideas Come From: The Natural History of Innovation」の著者であるスティーブン・ジョンソンは、時代を跳躍したかのような発明が生まれる要素について「天才という説明にならない説明以外に、タイムトラベターに共通の要素があるとしたら、それは、彼らが表向きの専門分野の余白、あるいはまったく異なる領域の交点で、仕事をしていたことである」と言う。

その点、エイダ自身が10歳を迎える前に父親と死別していようとも、彼女の母親が亡き夫の幻影をどんなに忌み嫌い、娘から遠ざけようと腐心していたとしても、エイダの血脈に流れるロマン派の情熱と創造性は、領域横断的な彼女の功績を語る上で、あまりにも大きな部分を占めていた(今となって彼女の本心を知る由はないが、エイダは父親のバイロンの隣に埋葬されることを選んでいる)。

また、エイダを退屈させた上流階級の型にはまった代り映えのない生活も、本人が自覚していたかどうかに関わらず、彼女にとっての重要な「余白」だったのかもしれない。

様々な分野の専門知識の領域横断的な交配を生む「余白」が飛躍的な創造の鍵となるのだとしたら、人々がガレージをイノベーションの苗場として認識するようになったのも自然なことだと言える。

ガレージは、往々にして偉大な発明家たちにとっての時間的、空間的、あるいは心理的「余白」だった。

インターネットもまた、専門知識の領域横断的な交配を生む「余白」を人々に与える。

本来、ネットワークの専門家ではない金子勇が、日本原子力研究所の研究員だった時代に分散システムの構築に携わったことがきっかけで、Winnyの開発に着手したことはよく知られている。

金子は、ある種の美学に裏付けられたP2Pネットワークの構想を、自身の研究室ではなくインターネット上の「余白」で表現した。

2008年、サトシ・ナカモトが「P2P電子通貨システム」に関する草案を暗号技術者たちのメーリングリストmetzdowdに公開すると、世界中の様々な分野の専門家たちを惹きつけることとなったが、ハル・フィニーやジェド・マケーレブといった多くの先駆者たちにとって、そこは本来の業務からはかけ離れた場所であり、自身の好奇心を追求できる「余白」であった。

飛躍的な創造性を語る上で、インターネットが与えた領域横断的な交配を生む「余白」は、私たちが思っている以上に重要な要素なのかもしれない。

1991年、ロンドン科学博物館はバベッジとエイダの功績を再評価し、原図をもとに「解析機関」を完成させた。曇りがちなケンシントンの空は、時折、「解析機関」に落日を差し込む。

今でもそこを訪れる人は絶えない。先行きの見えない、漠然とした閉塞感の中で創造性の手がかりを探るため、あるいは社会慣習による拘束を断ち切り、情熱と探求にその生涯を捧げたエイダ・ラブレスを讃えるため。